2018年11月13日

レゴ世界遺産展探訪14−1

★ アジア編5−1 ★

21.
『ルアン・パバーンの町』より
ホー・プラ・バーン
作:Gavin Foo


〈画像@〉
Phou si Luang Prabang Laos プーシーの丘 ラオス・ルアンプラバーン DSCF6777
(画像引用元=Wikipedia日本語版『ルアン・パバーン郡』より)
※ 画像クリックで引用元に遷移。

『ルアン・パバーンの町』は、
ラオス人民民主共和国北部、
首都ヴィエンチャンからメコン川を遡ること約400キロ、
カーン川との合流地点に栄えた古都である。
町の詳細は不詳であるが、判っていることをまとめると、
どうやら町自体は、7世紀には存在していたようである。
7世紀末、同地はムアン・スワー(タイ語で『スワー侯の町』の意)と呼ばれ、
11世紀頃には、シェンドーン・シェントーン(以下、シェントーン)に改められたという。

同地がルアン・パバーンと呼ばれるようになったのは、16世紀のこと。
シェントーンは、14世紀、ラーンサーン王朝初代国王ファー・グム以来の首都であったが、
タウングー朝ビルマの侵攻を憂慮した第18代国王セーターティラートによりヴィエンチャンへ遷都することとなり、旧都となった。同時に、シェントーンの名を現在のルアン・パバーンに改めた。1560年のことである。

『ルアン・パバーン』とは、
直訳するとラオ語(ラオスの公用語)で『パバーン仏の町』となる。
パバーン仏とは、初代国王ファー・グムが即位した際、
クメール王朝より賜った仏像のことである。
1世紀頃スリランカで作られたとされる黄金の仏像で、ラオスの国宝だ。
現在も多くの人々の信仰を集めている。

〈画像A〉パバーン仏
Phra Bang
(画像引用元=Wikipedia英語版より”Phra Bang”)
※ 画像クリックで引用元に遷移。

     ★ ★ ★ ★ ★

ところで、今回の作品『ホー・プラ・バーン』とは、
このパバーン仏が安置されている宗教施設の名である。

〈画像B〉
Buddhist temple at Royal Palace in Luang Prabang
(画像引用元=Wikimedia commnsより、"Buddhist temple at Royal Palace in Luang Prabang")
※ 画像クリックで引用元に遷移。

ホー・プラ・バーン(”Haw Pra bang”)とは、タイ語をローマ字に音写したもので、
ホーは『塔』、プラ・バーンは『パバーン』を意味する。

…と、ここまで書いてきて、『パバーン』に関する表記揺れがとても気になる。
何故、ラオ語という公用語があるにもかかわらず、
タイ語、もしくはタイ語と混淆した表記となるのか?
ラオ語とタイ語は近縁関係にあるが、当然、別の言語である。

気になって調べてみたのだが、
ラオ語とタイ語の関係を探るとなかなか根深いものがある。
簡潔に言えば、
一つに、長らくラオスがタイによって属国化されてきたことにより
タイ語の影響が強まったこと。
二つに、二国間の農業経済の格差でタイがラオスを見下し、
ラオ語話者を馬鹿にしてきたことなどが原因と考えられている。

感覚としては、
方言丸出しは東京では恥ずかしいので標準語を喋るというようなものだろうか?
方言と標準語が混在した日本語を話す人が地方にも増えているが、
それに近いことがラオスの国語で起きているようである。
民族のアイデンティティを考慮するならば、
そこはラオスに敬意を込めて、
ラオ語のホー・パバーン("Haw Pha bang")とすべきだろう。
ここでは以降、『パバーン』で統一する。

     ★ ★ ★ ★ ★

見た目は如何にも東南アジアの寺である。
由緒も格式もありそうな豪壮金ぴかの佇まいである。
さぞかし時代も古いのだろう…、と思いきや、
この建物は擬古典風の現代建築である。
このホー・パバーンは、
ルアン・パバーン王宮博物館の敷地内に建てられた新しい宗教施設だ。
工事着工はラオス内戦(1953〜75年)真っ只中の1963年だが、
程なく内戦に巻き込まれ長らく工事を中断。
再開したのは30年後の1993年であり、さらに竣工は2006年のことである。

しばしば、この建物をワット・ホー・パバーン(”Wat Haw Pha bang”)と表記しているのが見られるが、ワット(”Wat”はタイ語で『寺院』の意)というよりは、飽くまでパバーン仏専用の御堂という感じだ。実際、表記は『ワット』なしで書かれることが多いようである。
この王宮博物館の隣には、18世紀末創建のワット・マイ・スワナプームアハーム(通称ワット・マイ)という王立の仏教寺院があり、かつてはここにパバーン仏が安置されていた。4月のパバーン仏の灌仏会(かんぶつえ)もそこで行われる。感覚としては、博物館内にあるワット・マイの付属施設といったところだろうか? 

     ★ ★ ★ ★ ★

そうしたことを踏まえて、ようやく本題。

〈写真@〉
ルアン・パバーン1.jpg

…と行きたいところだが、今回はここまで。

くどくどと説明が長すぎる。
何故、作者でもない私が、ここまで説明をしなければならないのか?
答えは簡単である。
作品に、個別具体的な説明が全くないからだ!
簡潔詳細な作品の手引きがあるならそれを引用すれば事足りるのだが、
そうしたものが全くない!
いや、説明が全くないわけではない。
一応、写真のような解説の書かれた円いプレートが掲示されているのだが、そこに書いてあることは、その世界遺産全体の概略だけである(写真A参照)。

〈写真A〉雑な写真でごめんなさいw
ルアン・パバーン21.jpg

作品名『ホー・プラ・バーン』とだけあり、小さく写真を載せてはあるが、結局それは一体どういうものなのか、何処にも何も書いていない。その辺りが大変不親切である。
もうちょっとどうにかしろよ、とは思う。

多分、このシリーズが完結したら、公式が出しているガイドより詳しい解説書(しかも多少の毒を含んだ)になるような気がするが、
本当にそれでいいのか?…

註※
写真@Aは筆者が撮影した。


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2018年11月09日

レゴ世界遺産展探訪13

★ アジア編4 ★

21.
『ピュー古代都市群』より
ボーボージー・パゴダ
作:Gavin Foo

ピュー族は、1世紀から11世紀頃までミャンマーに存在したとされる
詳細不明の民族集団である。
インドのヒンドゥー教世界の君主制に上座部仏教の思想を足し合わせた、
独自の統治制度を持っていたとされる。
統一王朝ではないらしく、テーゴウン、ベイッタノーなど
エーヤワディー川(旧称イラワディ川)中流域に、
少なくとも七つの城郭都市が発見されており、
それぞれ王がいたものと考えられている。
中でも最大の城郭都市は、エーヤワディー川中流域南端の
シュリー・クシェートラ(ビルマ語では『タイェーキッタヤー』)で、
およそ3世紀から10世紀まで存在したと言われている。

ボーボージー・パゴダは、そのシュリー・クシェトラ城外に建つ仏教遺跡である。
煉瓦造りの釣鐘型をした建物で、特に目立つ装飾はない。
基部の南東に内部に続く通路があるという。発見時、内部には、
裏面に文字の刻まれた多数の磚仏(せんぶつ/粘土などで型抜き、焼成した半肉の仏像)が安置されていたという。

〈画像@〉
20160810 Bawbawgyi Pogoda Sri Ksetra Pyay Myanmar 9252
(画像引用元=Wikipedia英語版”Pyu city-states”)
※ 画像クリックで引用元に遷移。

パゴダ(pagoda)とは、仏塔を意味する英語である(英語だったとは知らなかった)。
Wikipediaによると、
〈日本では主にミャンマー式の仏塔を意味する〉という(そうだったんだ!)。
所謂、仏舎利塔のことであり、釈迦にまつわる聖遺物、
またはそれに代わる経文を安置する建物である。

このパゴダの詳しい成立年代は不明だが、4世紀以降のものらしい。
11世紀のパガン朝(ビルマ族最初の王朝)の下で建てられたシュエズィーゴン・パゴダや、ヤンゴンのシュエダゴン・パゴダなどの原型になったと言われている。

     ★ ★ ★ ★ ★

残念なことに、アジアの遺跡というのは兎角マイナーで地味である。
ヨーロッパのようなロマンティックでメルヘンチックで判りやすい感じは一つもない。
筆者はかつて大学を世界史で受験したため何となくピュー族のことは覚えていたが、
だからといって遺跡の一つ一つまで詳らかなわけではない。
作品を見ても、へぇ、こんなのがあったんだ、という程度。
東南アジア史には、あまり関心が無い所為もある。
鑑賞者の多くも、割と流して見ている感じである。
確かに流してしまいそうではあるが…

この作品、
ビルダーの視点から見るとちょっと面白い。

〈写真@〉
ピュー2.jpg

作者曰く、

〈(前略)、よく調べると、建物の壁面に溝が有ることに気付きました。
その為、建物の筒型の部分は、ブロックの突起の有る面を内側に向けて作りました。
この珍しい方法を使ったことで結果的に、表面がより細かく再現することが出来ました。〉

という。

〈建物の壁面の溝〉が何を指しているかは不明であるが、
ひとまず二つの可能性を述べる。

全体的にそういう溝が装飾されているわけではないが、
確かにドーム天井の付け根の辺りに溝、というか縦の筋が見える(画像@参照)。
見る限りにおいて、風化により表面を覆っていたものがはげ落ち、
内部構造が透けているようである。
おそらく基礎となる部分を円に内接する多角形(何角形かは不明)に煉瓦で積み上げたのだろう。
多角形の角の部分が縦の線として露出しているらしい。
一つに、それのことなのではないか?
二つに、単純に煉瓦を積み上げることで出来る筋のことかもしれない。

     ★ ★ ★ ★ ★

ともかく、
なるほど、確かに円筒部分は全てパーツの裏側を表にして貼り付けてある。

〈写真A〉
ピュー4.jpg

確かに珍しい手法だ。
もっとも、この世界遺産展には、この珍しい手法を用いた作品がいくつかある(※)。
※詳しくは以下のページを参照されたし
レゴ世界遺産展探訪3・金閣寺
レゴ世界遺産探訪6-3・五箇山合掌造り

そこで、一体、どのような構造になっているか考えてみたい。
プレートを山なりに重ねて曲面を作る。
これを四組用意し、貼り合わせて円柱を作る。
手法としては常套手段の一つであり特に目新しくもないが、
面白いのは、それぞれの円弧の末端の処理である。
よく見ると互い違いに1x2のレール付プレートを取り付け、
約半ポッチ分の飛び出しを作っている。
こうすることで、より滑らかな曲面の再現を実現したのが判る(写真A参照)。

以下の図は、そうした情報をもとに円筒を簡易に再現したものである。
角の新灰の部分が、レール付プレートを貼り付けた箇所である。

〈図@〉
ピュー古代遺跡1.png

それを俯瞰すると、およそこんな感じになる。
一面の弦の長さを10にして再現したので少し角を感じる円柱に仕上がっているが、
さらに規模が大きくなればなるほど山なりに詰むプレートの数も増えるので、
より滑らかなものになるだろう。

〈図A〉
ピュー古代遺跡2.png

再現して判ったことは、
裏返しに作るため、面同士の留め方がなかなか複雑な点である。
おそらくこんな感じで作ったのだろう。
作業の流れをGIFにまとめてみた。

〈GIF〉
ピュー作り方.gif

ところで…、
私はこの作品を見ていて、
このやり方は巨木の再現にも応用できるのではないかと感じた。
例えば、屋久杉やレバノン杉、メタセコイア、
架空ながらユグドラシルのようなものである。
そうした巨木の幹の再現にはもってこいの技法ではないか!
もっとも、なかなか巨木そのものを再現することはないだろうが、
例えば、ファンタジーにありがちなツリーハウスの木の幹の部分などに
応用は効きそうである。

     ★ ★ ★ ★ ★

建物には、換気のためか一つだけ窓がある。
この窓の取り付け片を考える。

〈写真B〉
ピュー1.jpg

側面ポッチ付ブロックにL字プレートを積み、曲面に沿って回転させて沿わせる。
多分、こんな感じでやったのではないだろうか?

〈図B〉
ピュー古代遺跡15.png
〈図C〉
ピュー古代遺跡14.png
〈図D〉
ピュー古代遺跡13.png

     ★ ★ ★ ★ ★

最後に、塔の天井部分。
なだらかな丘状のドーム天井となっていて、天辺に円錐状の装飾が付いている。
五重塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)ならば『相輪(そうりん)』と呼ぶところだが、
何というのだろうか? 寡聞にして知らない。

〈写真C〉
ピュー3.jpg

この世界遺産展には、このドーム天井の建物が数多く出品されている。
それぞれに作り手の癖が現れていて、それはそれで分析のしがいのあるものだ。
いずれまとめて特集したい。

註※
写真@〜Cは筆者が撮影した。
図@〜D、及びGIF画像は、LDDを用い筆者が作図した。
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2018年11月08日

レゴ世界遺産展探訪12

★ アジア編3 ★

20.
古都ビガン
作:Gerald Cacas


私の大好きな作品の一つである。

〈写真@〉
パガン1.jpg

ビガンは、フィリピン共和国ルソン島北部の古い港町である。

〈画像@〉
Vigan Calle Crisologo 2
(画像引用元=Wikipedia日本語版より『ビガン』)
※ 画像クリックで引用元に遷移。

スペイン領となった16世紀以降、
マニラとアカプルコ(メキシコ)を結ぶガレオン貿易の拠点となり繁栄した。
当時の名は、シウダー・フェルナンディナ(スペイン語で『フェルナンドの都』)という。
スペイン王フェリペ二世の夭折した息子・フェルナンドを偲んで名付けられたという。

この町は日本とも関係が深い。
大東亜大戦当時、フィリピンは日本の占領下にあると同時に、
それ故に南方戦線の激戦地の一つとなった。
アメリカの進撃に敗走を重ね背水の陣の日本軍に対し、
軍司令部は、ビガンの町を焼き払って撤退し、
山中でのゲリラ戦に持ち込み、耐えるよう迫ったという。
それに抗命したのが、当時、この町で憲兵隊長を務めていた
タカハシ・フジロウ大尉とナリオカ・サカエ(階級不詳)である。
いずれも現地人女性と結婚し、ビガンに家庭を築いていた。
家族や町の人々、美しい町並みを守るべく、親しいドイツ人司教に全てを託し、
町を傷つけることなく撤退したという。
戦中の日本軍については悪しき側面ばかりが語られるが、
現地の人々のために、身を挺して尽くした軍人のいることも忘れてはならないだろう。

     ★ ★ ★ ★ ★

作者曰く、
今回の作品は、その中心となるクリソロゴ通りの風景だという。

〈地図〉Googleマップより、ビガン・クリソロゴ通り


現在残る世界遺産の町並みは、
バハイ・ナ・バトと呼ばれる百棟余りの住宅で構成されている。
これは、タガログ語で『石の家』を意味するが、その実態は木骨煉瓦造りである。
Wikipediaをはじめ、その建築に関する特徴をまとめると、
スペイン、中国、ラテンアメリカの建築様式を掛け合わせ、
フィリピンの気候・風土に適した形に仕上げた独特の建築とされる。

確かに建物の構造は西洋建築、所謂、スパニッシュ・コロニアル風の堅牢なものだが、
見る限り、二階の窓は引分け窓や引違い窓で、造りはむしろ障子や舞良戸に似る。
中国古典建築に見られる建具、
例えば隔扇門窗(かくせんもんそう)は基本的に開き戸型である。
専門家の意見に異を唱えるわけではないが、
中国風というよりは、むしろ和風の感じもする。
ビガンが栄えた16世紀には、同じルソン島マニラに日本人町もあったわけで、
そうした影響もあったのではないだろうか(キャプチャ@・A参照)?

〈キャプチャ@〉
ビガン1.jpg

〈キャプチャA〉
ビガン2.jpg

誤解を恐れずに言えば、
階下にガレージのあるモーテルのような雰囲気である。
が、それは当たらずとも遠からずで、
主に一階は馬小屋、または倉庫として使われていた。
二階以上が居住空間であるという。

     ★ ★ ★ ★ ★

そうしたことを踏まえて、作品を見てみよう。
冒頭で〈大好きな作品〉と紹介したが、しかし…、

その言葉に偽りはないものの、
正直なところ、その建物の造作については、
世辞にも上手いとは言えないものがある。
制作時にリリースされていたパーツのヴァリエーションにもよるだろうが、
それにしても全体的に解像度が粗く、緻密さを感じない。
屋根や街路に不自然な隙間の目立つことも気になる。
何だか全体的に造りが稚拙なのだ。

〈写真A〉
パガン3.jpg

〈写真B〉
パガン2.jpg

もっとも、町並みの建物自体、それほど丁寧に手入れが行き届いている感じはないので、
多少粗雑な造作に見えても問題はないのだが、しかし、それでも違和感は拭えない。
一番の違和感は、屋根である。

〈写真C〉
パガン4.jpg

赤道直下で雨も殆ど降らないところというならともかく、
熱帯気候特有のスコールや台風など、降水被害の多い地域である。
そんな地域の、伝統的な古い木骨煉瓦建築の建物に陸屋根はありえないだろうに。
しかも、屋根瓦を葺いた陸屋根などというのは寡聞にして知らない。
基本的に、陸屋根は水はけが悪く、まして木造では維持が非常に難しい。
忽ち雨漏りするだろうし、溜まった雨水の浸潤による木骨の腐敗も免れないだろう。

事実、Google mapの航空写真モードで、クリソロゴ通りを俯瞰すると、
傾斜のついた寄棟の屋根を幾棟も観察することが出来る(キャプチャB参照)。
 
〈キャプチャB〉
ビガン6.jpg

実際、交差点の一隅から彼岸の建物を見ると、
やはり屋根に勾配がついていることが確認出来る。

〈キャプチャC〉
ビガン7.jpg

屋上が陸屋根でテラスになっている建物もないわけではないが、少ない。
おそらくそうした建物は、近年建てられたものだろう。
陸屋根の建物の多くは鉄筋コンクリート建築である。
近年では木造でも陸屋根の建物があるが、
それも最新の漏水対策技術があってこそのものである。

     ★ ★ ★ ★ ★

もっとも…
以前、世界遺産展にも出品された日高雅夫氏から聞いた話だが、
世界遺産展の作品制作の難しさは、一つに作る対象の情報量によるという。

イタリアやフランスのように、
有名都市、有名観光地のものはネットにいくらでも情報が並ぶが、
そもそもが治安が悪く行きにくい場所やマイナーなものは、
どうしても情報が少なくなる傾向にある。

仮に情報が少なくとも、平泉や高野山のように国内ならば自ら取材にいけるが、
それが遠く離れた異国の地ともなれば、それも適わない。

この作品についても、そうした事情があったのかもしれない。

     ★ ★ ★ ★ ★

しかしながら、
それでもなお私が愛して病まないのはその街路の造りである。
実際の街路は、こんなにカラフルではない。
確かに、よく観察すると灰色を基調にほんのり青や黄色、赤といった色彩を感じることは出来るが、
しかしレゴで割り切るならやはり灰色で統一するところと考える。
読者諸氏はどう考えるだろうか?

〈キャプチャD〉
ビガン3.jpg

〈キャプチャE〉
ビガン4.jpg

〈キャプチャF〉
ビガン5b.jpg

だが作者は、灰色で割り切ることはしなかった。
それぞれの色を過度に強調する方向に舵を切ったのである。

〈写真D〉
パガン6.jpg

〈写真E〉
パガン7.jpg

〈写真F〉
パガン5.jpg

スコールが去った後の晴れ間、
水たまりに青空が映り、雲が映り、建物が映り…、
そうした生活の情景がキラキラと散らばって街路を作っているように私には見えた。
清々しさともに、東南アジア特有の熱気や湿度なども感じられて心地良い。
不思議とじっと見ていられる作品である。

作者がそこまで意図したものであるかは定かではないが、
その点は高く高く評価すべきだろう。
普通なら躊躇するところだが、こうした大胆な割り切り方も面白い。
どこかで取り入れてみたいものである。

註※
写真@〜Fは筆者が撮影した。
また、キャプチャ@〜Fは、いずれもGoogleマップ、ストリート・ビューの画像よりスクリーンショットで切り取り、必要最小限の編集を加えた。
posted by KM at 07:00| Comment(0) | 作例研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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